副代表の右近訪問記

久々のブログの更新です。

今年も、文学フリマ大阪は開催します。

今年の表紙を飾った「顔」は高山右近です。

戦国時代から江戸初期にいたる武将で、キリシタン大名として有名です。

洗礼名はジュスト、正義の人という意味だそうです。また、茶人として千利休の高弟であったそうです。

今年のキャッチコピーは「壁をぶち破れ」なのですが、信仰に生き、武将としても優れ、また文化人でもある彼の逞しさでもって、文学フリマ開催に向けて、高山右近は心強いシンボルとなるものだと思います。 

そして、私はそんな右近パワーを得るべく、阪急電車に乗って高槻市を目指しました。

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梅田駅に着くまでにすでに体力の半分以上は失われていました。

世は酷暑も酷暑。人間が生存できる暑さではありません。

山の方は、夕方ごろになるとさすがに涼しくなって驚いたことがあるのですが、都市は夕方こそその暑さを増す恐ろしさ。

太陽の光が日傘を貫くように差してきます。

高槻市駅に到着し、途中、コンビニで身体を冷やし、冷却スプレーを背中とお腹にかけて、ふたたび灼熱の世界に身を投じます。歩き続けるうちに頭がおかしくなり「サハラ砂漠以来やわ。サハラ砂漠以来やわ」とわけのわからない弱音を吐きました。

途中、ありました!

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高山右近です。敬虔な、神に祈る姿が見られます。

迫害を受けながら生涯信仰を貫き通した彼は2017年にローマ教皇庁から殉教者として列福されました。

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この像は、バチカン市国の聖クラレチアン宣教会総長から贈呈され、イタリアの彫刻家ニコラ・アルギイニ作の高山右近像だそうです。

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高山右近顕彰碑です。商工会議所がある場所に昔は建っていたそうです。

このカトリック高槻教会の聖堂は、高山右近臨終の地であるフィリピン・マニラ郊外アンティポロにある聖母大聖堂を模して建てられたそうです。1954年に仮聖堂が建てられ、1962年に聖堂が完成し、献堂式が行われたようです。

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近くには高山右近天主教会堂址の石碑がありました。

大阪府高槻市教育委員会の看板には、

「宣教師ルイス・フロイスの記録によると、1574年に高槻城高山右近(ジュスト)と父親の飛彈守(ダリオ)は、古社の位置に池や庭園をともなった教会堂を建立し、この教会堂を拠点にキリスト教布教に力を注ぎました。

高山右近の明石転封の後、しばらくして古社は元の場所に復帰したと伝えられていることから、当地周辺に教会堂があったと推定されます。

高槻市教育委員会が1998年に行った発掘調査によれば、蓋に十字架を墨書した木棺を含むキリシタンの墓地が発見され、教会堂に付属した墓地の一端が明らかになったようです。

 

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その後、城跡公園まで行きました。花が燃えるんじゃないかというくらい熱い日差しです。馬鹿みたいな日差しです。

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池も沸騰してるんじゃないかと思えるほどです。ふと右の方をみると、高山右近像が立っておりました。 

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高山右近「おはよう、少年!」

と、私に話しかけてきそうでした。いえ、もう年齢的には、「おはようございます、おじさん」でしょうか。確実に城主となった高山右近より私の方が年上です。

高槻城の説明看板には、1569年に和田惟政が城主となったが、1573年、その子惟長と対立した高山飛彈守・右近父子が、和田氏を滅ぼして城主となった。キリシタンであった右近は、場内に天主教会堂を建てるなど布教に努め、1581年にはイタリアの巡察師ヴァリニァーノを迎えて盛大な復活祭を催しているそうです。 

右近像の看板にはこう書かれています。

高山右近は、戦国末期の高槻城主、キリシタン大名であり、1552年ごろに現在の豊能郡豊能町で生まれたとされています。高槻城主となった右近ですが、摂津国を束ねる荒木村重織田信長から離反した1578年、信長はオルガンティーノ司祭を使いとし、右近に降伏をすすめました。降伏しなければ、キリスト教を弾圧するというのです。右近は村重へ子どもや妹を人質にだしており、苦悩の末に開城しました。その後は羽柴秀吉の下、山崎合戦などで功績をあげました。

1574年、右近は高槻城の側に壮麗な教会堂を建て、キリスト教の布教に努めました。宣教師の記録によれば2万5千人の領民のうち、1万8千人がキリシタンになったといわれています。

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高槻城主として約12年間を過ごした後、右近は播磨船上城(明石市)に移封され、秀吉がバテレン追放令を発した1587年には、棄教の命令を拒否し、領地を没収されました。その後、前田利家に仕えることとなり、金沢へと赴きますが、禁教令を出した徳川幕府により1614年10月に国外追放処分を受け、マニラに向かうこととなります。しかし慣れない現地で病の身となり、1615年2月3日に亡くなったそうです。

 

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そんな右近も今ではすっかりイケメンになり、謎解きゲームの主人公となっています。右近の選択。謎解きタイトルは「謎の城」です。謎だらけの企画です。延長決定してますが、すでに終わっているようで、参加できなかったのが残念です。

 

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最初、城跡には日向ぼっこをしている鳩たちがいたので、なんでこんな生物が生きていけない暑さなのに、アスファルトに寝っ転がってるんだ。大丈夫かと思ったのですが、実は違っていたのです。

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鳩は近くの水がなんか流れているところで水浴びして涼み、熱いアスファルトで羽を乾かす。そんなものすごく綺麗好きな感じのことをしていたのです。汗だくでどろどろの私は、鳩が気持ちよさそうにサウナと水風呂を楽しんでいるのをみて、ただシャッターを切ることしかできませんでした。

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途中、野見神社にも立ち寄りました。祭神として須佐之男命(牛頭天王)、野見宿禰命を祀っています。9世紀後半に、疫病退散の願いのために創建されたそうです。野見宿禰は相撲の神様であり、一部の説によると、石炭をダイヤモンドにするほどの握力があるそうです。本当かどうかはわかりません。けれども、あのスサノオと、野見宿禰の二柱にあやかれるのはありがたいので、しっかり、「文フリ大阪の出店者、来場者、そしてスタッフ達、会場の社員に石炭をダイヤモンドにするくらいのパワーを……!」とお願いしました。

手水舎が花手水になっていて、美しかったです。 

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水の上に浮かび花々と、そのうえで揺れる風鈴の音に、わりとガチで涼を感じました。 

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神社の後ろの雲でさえ力強い。でも静かな神社で、そして掃除が行き届いていて、とても綺麗でした。

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帰りは大阪でヒップホップや音楽好きなら誰もが立ち寄るコモレビカフェでキーマカレーを食し、アイスコーヒーで落ち着きました。店内は落ち着いた雰囲気で、レコードやDJブースがあり、奥にはソファ席がありました。2時ごろに到着したのですが、僕でちょうど満席となるくらい、賑わっていました。綺麗なお姉さん二人組から、老夫婦まで、ゆっくり思い思いの時間を過ごされてました。

 

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梅田のグランフロントまで帰ってきました。

どでかいビルがどんどん建てられるので、壁のようです。

左を向けばスカイビルが建っています。OMMと同じく、鏡のように空を反射して、一体化しています。

 

文学フリマ大阪はもう一つのキャッチフレーズがあります。

代表の挨拶にもあるように、

「当日は笑顔で会いましょう。」

です。

 

笑顔でなければならない、というわけではありません。

心配はすな、でも安心はすな。こうしたバランス感覚をもって、スタッフ一同、しっかりと出店者・来場者の皆さまをお迎えできればと思っております。

 

2020年09月06日(日) 11:00〜17:00

天満橋OMMビル 2F BCホールにてお待ちしております。

https://bunfree.net/event/osaka08/