大阪文学散歩 その1

文学フリマ大阪が大いに盛り上がりますようにと、思いまして、いわゆる「文学散歩」的なることをしてみたいと思っとります。

 「文学散歩」といっても、朝から夕方までいろんな場所を歩き通すわけではなくて、大阪の、文学ゆかりの地をちょっとだけまわる、というもんです。それも、会社のお昼休みのあいまとかにやります。

 

 文学、そして大阪と聞いて、まず第一回をだれにしよかなと考えましたところ、やっぱり武田麟太郎ちゃいまっかと思いました。

 武田麟太郎墓所は、岡山県浅口郡鴨方町明王院。東京都秋川市菅生の西多摩霊園には、分骨埋葬されているそうです。

 え? じゃあ、昼休みの間に岡山や東京に行ったんですか?

 

 違うねん。

 

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 上本町六丁目の交差点から上町筋を北に向かって歩くと、でっかいガソリンスタンドの看板が見えてきます。

 その看板の手前にある誓願寺というお寺のなかに、武田麟太郎の石碑があります。その石碑には彼の「井原西鶴」という小説の抜粋が刻まれているのです。

 なんでここに「井原西鶴」の石碑が……と思いますが、すぐわかります。そう、このお寺は井原西鶴墓所があるのです。ありがたや~と、拝み倒したいところです。

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ここには懐徳堂の学主を勤め、長い期間経営していた中井一族の墓もあります。この一族について色々書こうと思うと、調べるだけで文学フリマ大阪開催を過ぎてしまうので、やめておきます。やめさしてもらうわ!

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 武田麟太郎は1904年に大阪府大阪市南区日本橋筋東一丁目、長町裏と呼ばれるところで生まれました。

 武田麟太郎について考える際、父・左二郎がやはり重要やなと思います。というのも、お父さんは大坂で人力車夫をしつつも大変な勉強家で、弁護士を目指して学問を積んで、色々あって巡査となり、更に関西大学の前進である学校に夜学で通い、警視に昇格。最後は堺警察署長まで上り詰めた人。ほんま凄いですわ。武田麟太郎は母を16歳のときに失い、小説家になろうと決意し、父は息子に文学の道を進ませるために京都の学校に入学させます。さらに父の意志もあって1926年、東京帝国大学文学部に籍を置きます。

 が、そこから、リアリズムとロマン、政治と市井の人のあいだで、そして不穏な時代の流れにより、過酷な人生を歩んでいくことになるんやけど、これはもうどっかでよんどくれなはれや。

 

 織田作之助は「武田麟太郎追悼」で「不死身の麟太郎だが、しかしあくまで都会人で、寂しがりやで、感傷的なまでに正義家で、リアリストのくせに理想家で」と書いてます。まあ、なんかの参考にしといて!

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ちなみに石碑には

誓願寺を出ると 夏祭りを兼ねて遷宮の儀式もあるといふ生玉の方へひとりでに足が向いてゐた 季節の到来に勢ひづいた蓮池の近くの金魚屋も 大きな水槽を十幾つも並べて 郡山の金魚銀魚を浮べ好事家を待つてゐた 水も紅に染まつて目のさめるような眺めであつた

とあるねん。

  ここに書いてある「生玉」というのは生國魂神社のことやで。生玉夏祭は、蚊がいっぱいいるけれども、ぜひ虫除けスプレーをかけて、生國魂神社まで千日前筋沿いに坂を上がってみてくれなはれや。神社を過ぎるとまたどーんと下り坂になっとる。昔はどんな光景やったんやろなあ、と、想像してみると面白いかも知れへんし、生國魂神社の神様は大阪にとって大変に重要な神さんなんやでっしゃれ~。

 

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 ではまた次回、どこかで。

 文学フリマ大阪事務局 スタッフ 顔色白太郎