文学フリマ大阪10周年記念 スタッフ投稿リレー2「三好長慶と花田清輝」(副代表より)

 文学フリマ大阪10周年記念のスタッフ投稿リレー2つ目は副代表からです。今年のメインビジュアルを飾る三好長慶ゆかりの地を訪ねてきてくださいました。

 

1.移動中に見たもの

 

 ヨドバシカメラの通販で買った水色の日傘を手に、大阪は堺の南宗寺に向かいました。「なんしゅうじ」と呼びます。午前九時半に家を出ると、沸騰した泥をぶっかけられたような気分になります。重たいほどの太陽熱と道路の照り返しです。

 天王寺阪堺電車に乗りました。阪堺電車大阪市内と堺市内で2路線の路面電車を運行しています。
 その路面電車が素晴らしすぎて、このまま終点の浜寺公園まで車輪の音を聞きながらここに座っていたい……と思いました。昔、千葉県の市原湖畔美術館に行くために、大阪から電車を乗り換え乗り換え、小湊鉄道線高滝駅にたどり着くまでのだんだん人が少なくなっていく、いわゆる「冷房の効きすぎた車両のノスタルジー」を思い出しました。乗車する人は自分しかいない、めちゃくちゃ冷たくて気持ちいい冷房、というあの感覚。人の少ない電車と、窓から見える山と緑。「こんな山の中にも家があるんやな……」という気持ち。それが一気に噴き出してくる電車でした。

 二〇分か三〇分ほど乗っていると、御陵前駅に到着。南宗寺は歩いてすぐの所にありました。ちなみにその一つ手前の駅である寺地町との間には、二階建ての死ぬほど涼しいブックオフと、和菓子屋「かん袋」と、知る人ぞ知るお米の美味しいお店「銀シャリ屋」があります。この南宗寺にお立ち寄りの際はぜひこの三つもチェックして下さい。

 まずブックオフは行きました。涼むためです。それから「かん袋」は、かん袋を買いに来た客の駐車場だけを見ました。実際には買いに行ってません。その駐車場の近くに不気味なほど滅びた長屋のような建物があり、そっちのほうが目立っています。あれはいったいなんなのでしょう。また、銀シャリ屋はそのかん袋駐車場の横断歩道向かいにあり、訪れたお客さんは、記念写真を撮っていました。それほどの名店らしいです。お米がめちゃくちゃ美味しいらしいです。

 

2.南宗寺と花田の批評

 

 南宗寺は、いわゆる大量の観光客に対応できるようなお寺ではなく、北入口から入りますと普通にお墓がたくさん並んでいますので、お参りに来ている方の迷惑にならないように動く必要があります。
 南宗寺甘露門の近くには、わりと最近作られた感じの三好長慶公の座像があります。「文武相備 在家菩薩」と銘うたれております。三好は戦国大名なので、鎧を身に纏っていたり、勇ましいイメージがありますが、文学フリマ大阪の表紙としてはこの「文化人としての三好長慶」のほうがしっくりときます。今年は三好長慶生誕500年だそうで、全国のニュースにもなっていました。

 ところで、作家・文芸評論家である花田清輝のエッセイに「古沼抄」という作品があります。これは、『日本のルネッサンス人 (講談社文芸文庫)』などに収録されています。
 まず、花田は、『日本のルネッサンス人』全体を通して、一貫して主張していることがあると思います。
 乱世かつしがらみのある世界や世間の荒波を機転と知識を活かして生きる「庶民」像と、芸術に徹底することで逆に世界を飲み込んで乗り越える「天才」、そんな二つの世界の良い意味での接続(庶民と天才の融合ではありません。ちょっと距離があります)です。
 そして日本の中世は、そういう天才と庶民の時代なのだ、転換期なのだ。「転換期」を土台にして、一条兼良等を中心に取り上げながら書いて、戦争にあけくれる政治を飲み込んで超えていく、ある意味「芸術や数寄至上主義な徹底した貴族や文化人と名もなき庶民一人一人の力強い仕事に徹する生き様の融合・共同作業で、歴史や戦争や政治を越えて行く」みたいなことを柱にして、中世の日本を書いているように思います。
 酒の勢いで悟ったことを言ったり、運動のための政治になってしまうような連帯とは異なる「運動」または「共同作業」を、花田は中世の日本に見ているのでしょう。

 

3.花田と三好


 そこで、花田は「古沼抄」で三好長慶を取り上げます。
 エッセイはこんな出だしから始まります。(【】は引用です)

【永禄五年(一五六二)三月五日、三好長慶は、飯盛城で連歌の会をひらいていた。宗養だったか、紹巴だったか忘れたが、誰かが、「すすきにまじる芦の一むら」とよんだあと、一同がつけなやんでいると、長慶が、「古沼の浅きかたより野となりて」とつけて、一同の賞讃を博した。(『三好別記』『常山紀談』)】

 つまり、長慶の表現はこうなります。
【まず、古沼がある。古沼のまわりには芦の群落がある。つぎに、芦間にまじるすすき一もと──または一むらがあらわれる。いつの間にか原野のけはいがただよいはじめたのだ。それから、すすきにまじる芦の一むらが続き、やがて古沼の影響は、まったく消えさり、最後には、風がふくたびに、いっせいに波たち騒ぐ、ぼうぼうたるすすきの群落になる。】

 この連歌の流れを、一つの芸術運動として花田は捉えて、【運動の究極の目的は、その運動に参加した全員の手によって、具体的な作品をつくり出すことであろうに。】と述べます。
 そして、【わたしは、共同制作を、みずからの課題とする文学集団の出現を待っている。】、【文学というものはあくまでたった一人で書かなければならないものであろうか。】と述べています。
 世に対する、もしくは自分に対する、もしくはそのどちらでもなく、色んな思いを込めて作品を完成させる。その色んな思いのこもった完成度のある作品は、集団のこの連歌のようなコラボならばできるのではないか、と。


 もちろんダメな例があって、それは花田自身の経験を例に書かれています。
【もっとも、わたしの演劇における共同制作に決定的な終止符を打ったのは、ある演劇 研究所の試演で、わたしの戯曲のなかの馬が、六本足で登場するのをみて以来のことだ。それは、たしかに因習にとらわれない試みにちがいなかった。しかし、六本足の馬には、はじめてお目にかかったので、演出者にそのわけをきいてみると、かれは、さばさばとした顔つきで、二人の馬の足では、胴体が重くて、とうてい、持ち上がらないので、一人、馬の足をふやしただけですと答えた。】
 これでは「三好長慶」にはならないということです。

 

4.南宗寺巡り

 

 さて、南宗寺の山内のちょっと外れたところには、大辨才尊天の神社がありました。文フリの参加者の方、来場者の方が、のびのびと楽しめる会になるよう、祈りました。夏なので、木々や草花の勢いが凄く、薄暗い神社になっていて、ちゃんと手入れされているのかなと心配になりましたが、境内社のお花はきちんと取り替えられていました。
 ちなみに、南宗寺は重要文化財が3つあり、承応2年(1653)建立の仏殿(大雄宝殿)、正保4年(1647)建立の山門(甘露門)、江戸時代初期建立の唐門が、国指定の重要文化財だそうです。


 甘露門は三間一戸の楼門、入母屋造、本瓦葺の建物で禅宗様と和様の折衷様式になっています。
 唐門は一七世紀中頃の建立とみられ、簡明な構造の向唐門であり、その屋根瓦の紋所は、あの徳川の「三つ葉葵」、木鼻の絵様繰形は、甘露門に通じています。昔、この堺に建てられていた「東照宮」へ通じる唐門です。
 で、それはどんな門やねん、とお思いでしょうが、写真は一応アップしません。ネットで探して下さい。

 他のサイトのブログとかにはぶっちゃけ南宗寺の写真はガンガンに上がっているのですが、案内のパンフレットを見ると「山内禁煙・撮影禁止」の文字があります。みんな上げてるんですけど、対策のしようもないし、放置なのでしょう。私は写真アップはしませんので、上げるとしたら阪堺電車の写真一枚ですが、ほんとうにこの電車に乗るだけでも楽しかったので、ぜひ乗って行って下さい。おすすめは、誰もいない時間帯です。朝1番とか。5時とか6時くらいとか。

 そして、阪堺電車は乗ってくるお客さんにも注目です。帝塚山近くになるとダンススクールに通っているポニーテールの女子たち、住吉大社近くになると超絶いかつい薬局と観光客や並ぶ灯籠。北畠になるとなんか建物が結構豪華というか、何階建てですねんという一軒家が並ぶけれども、めちゃくちゃ電車が目の前通るというカオスさ。また、道路の広さも注目してください。綾ノ町駅あたりから、道路がバチバチに広くなります。帰りに乗るともっとはっきり分かるのですが、家にぶつかりそうなくらい道が狭かったことに気が付きます。道がいきなり広くなるのは、戦争で、火が燃え移らないように大和川から高須神社に向かって南下したあたりから道路拡張工事をした影響らしいです。

 

5.南宗寺更に奥深く

 

 さて、パンフレットによれば、南宗寺は大永6(1526)年京都大徳寺の住職古嶽宗亘が堺南庄舳松(現堺区協和町)の一小院を南宗庵と改称したのを始まりといわれているそうです。
 大林宗套(だいりんそうとう)は、南宗庵で古嶽に参禅し、後に大徳寺の住職(大徳寺九〇世)となりました。天文十七(1548)年、師の遺命により南宗庵にはいりました。
 大林和尚に深く帰依した三好長慶は、父元長の菩提を弔うために、弘治三(1557)年、南宗庵を移転し、大林宗套(だいりんそうとう)を開山として創建、南宗寺としました。天正二(1574)年の松永久秀の乱、慶長二〇(1615)年の大坂夏の陣にて南宗寺の堂宇は焼失しました。その後、沢庵宗彭(たくあんそうほう)らにより再建が行われました。

 織田信長よりも二〇数年前に堺を拠点に畿内など十三カ国を治め天下統一したのが三好一族です。ちなみに出身は徳島だそうです。

 

 南宗寺は、受付にはボランティアの説明の人がいて、無料でガイドしてくれます。夏は、虫除けのスプレーが備え付けられていて、かけることをすすめられます。蚊がめっちゃいるようです。
 案内が始まるとすぐ、裏千家表千家武者小路千家の供養塔があり、三千家区別なく供養していると説明があります。お茶の聖地ですね。
 武野紹鴎の供養塔があり、真ん中に四角い穴が開いています。その穴から釜の水の煮える音がするそうです。また、三好一族の墓もあります。一番背の高いのが三好長慶だそうです。その一族の墓の向かいにはなんと徳川家康の墓もあります。ここに徳川は埋まってるんじゃい! という山岡鉄舟のお墨付きだそうです。


 茶室ももちろんありますが、非公開。枯山水の石庭は見ることはできました。奥には古田織部式の石灯籠が立っていて、土台石がないそうです。つまり高さを調整しやすくなっているとか。けれども、調整しなさすぎて、ちょっと傾いていました。
 また、鞍馬山にあったような水琴窟があって、長いパイプを用意してくださって聞くことができますが、あまりにもでかい音で、なくても聞こえます。
 津田家と半井家一門の墓もあり、隠れキリシタンとして、灯籠にはマリア様と、キリストが掘られています。問い詰められたらお地蔵さんですといえるように、像の頭は丸くしてあります。

 

6.堺は東京である

 

 戦前にはこの南宗寺の地に「堺東照宮」がありました。しかし、昭和20年の空襲で焼失したそうです。堺は徳川勢と仲良くしていたので、豊臣から、徹底して焼かれてしまう。それが堺に深く傷をつけた歴史を知ることができます。

 いたるところで、大阪とは思えないほど、徳川の葵の紋所を見ることが出来ます。それから、瓦を積み上げて固めて作った塀が至る所にあります。第二次大戦の戦火の中でも崩れなかった頑強さだそうです。この瓦は、徳川と繋がっていることを疑われ、大阪に堺中が焼かれた時の家の屋根の瓦を使っています。その塀のテッペンには三つ葉葵の紋の瓦が取り付けられています。

 私の中で、堺は、もう一つの江戸(東京)、というイメージです。そして、堺にとって、豊臣よりも徳川が慕われているという文化があったことはまったく知りませんでした。「堺」と「大阪」は徳川を巡ってまったく違う! むしろ、言い過ぎかも知れないけれども、堺は大阪ではないのでは? これは重要な観点だなと、学びました。

 本堂には、臨済宗らしく、でかい龍の天井画があり、どこからみても、龍が自分を睨んできます。京都の建仁寺の天井画を思い出す人が多いでしょう。本尊は戦後の混乱のころに盗まれたらしく、いまだにどこにいったかわからないそうです。で、今ある本尊の釈迦如来像のところは個人的な撮影も禁止。あと、修行中の若い僧侶がいましたが、話しかけてはいけないそうで、ボランティアさんも、挨拶は軽くするくらいだそうで、非常にストイックです。

 山内にある坐雲亭は南宗寺で最も古い建物です。中には徳川秀忠、家光両将軍の御成りを記した板額があるそうです。大阪と言えば豊臣、ですが、堺を訪れて思ったのはここは徳川だな! でした。むしろ、大阪にいながら、東京観光をしたような気分でした。
 この堺と徳川の関係というかエピソードは戦後もあるようです。
 あるとき松下幸之助を三木啓次郎(徳川家に仕えた常陸水戸藩家老三木之次の子孫。三木之次は水戸黄門こと徳川光圀と極めて大きな縁がある)が出資し、松下電器を助けた。その後、三木が「水戸黄門」を番組にするとき、スポンサーとして、かつての出資の恩のお礼として松下電器がついたという。そんなエピソードも、南宗寺に眠っています。

 

 現在、どうにか三好長慶NHK大河ドラマにしてくれと、猛プッシュですが、なにしろ登場人物も多く人物関係も複雑なので、ドラマ化は無理ちゃうか、でも鎌倉殿の十三人ができたんやからできるやろと、大河ドラマ化に向けての議論がボランティアさん同士でされてました。
 禅堂をふとのぞくと、修行の僧侶が身体を休めていました。私は僧侶といえば、暴飲暴食、新地で大暴れして京都でベンツ乗り回す僧侶しか知りませんでしたので、こんなストイックな僧侶がこの世にいるのかと、驚きと共に、関心いたしました。

 

7.花田清輝の結論

 

 さて、最後に、花田清輝は南宗寺について、このような言及もしています。


【南坊宗啓は、堺の南宗寺の集雲庵、一名南坊に住んでいた禅僧であって、茶人としては、千の利休の弟子だったが、先生の三回忌のおこなわれた文禄二年(一五九三)二月二十八日、突然、集雲庵から蒸発してしまった。】と利休の高弟とされる南宗寺の塔頭集雲庵(たっちゅうしゅううんあん)第二世住持と自称した男を取り上げます。

 そして、南坊宗啓の正体について議論を進めつつ、利休の茶のスタイルとは意味とは何だったのかについて述べていきます。

【徐々に茶の湯といったような共同作業のなかへ誘いこみ、いつのまにかあたらしい因習外の秩序を実現したところに利休の独創があった。】のではないかと花田は言います。

【個人というものは、とうてい、わかりあうことのできないものだという大前提の上に立って、しかもなお、茶の湯といったような共同作業をとおして、それらの個人のあいだにコミュニケーションの成立することをねがった芸術運動の指導者の言葉ではなかろうか。したがって、わたしをしていわしむれば、利休にとって茶の湯とは枯淡の心境にたっするためにではなく、枯淡の心境からぬけだすためにとりあげられたものであったのだ。】と利休の茶を分析します。

 つまり「コミュニケーションできないから、争う」のではなく、できないから、茶の湯というある因習を超えた「道具の空間」を新たにつくって、思いもよらぬ次の秩序やルールを共同作業で目指す、現実のものとする。

 ちなみにそれは、何か枯れた、老成した、もしくは悟りあえるような空間ではない。つまり、チルな感じで人生を悟ったような感じで一体になってるわけでも、無頼やアナーキーでちょっぴりアウトローであることを母のように誇るのでもなく、自分が同調圧力をかけていることをフッドと呼ぶようなこともせず、答えが出ないことを保ちつつ「俺達が仲良く出来るわけないだろ」と感じあいながら究極の器と花と茶を楽しむ。それがこのエッセイ「利休好み」(『日本のルネッサンス人』収録)にて語られています。

 つまり、先ほど取り上げた「古沼抄」の応用編・実践編になるわけですね。

 南宗寺に集雲庵はもうありませんが、利休好みの茶室「実相庵」はあります。
 茶室は入れませんでしたが、土壁のところに、羽化に失敗し、半分殻を脱いだまま固まって絶命している蝉がいました。