第十回文学フリマ大阪にご参加頂きありがとうございました!

 本日で取得していた夏休みが終了する代表が書いております。今は荷ほどきをして、お片付けの最中です。
 皆様、第十回文学フリマ大阪に参加頂き誠にありがとうございました!
 お陰様で過去最高の2,676人もの方に来場頂きました。これはコロナ前を超える記録で一つの区切りとなったかなと思います。当日、用意していたカタログも会期中になくなってしまいなど、ご不便をおかけした点もございましたが、重ね重ね御礼申し上げます。
 来年はABCホール借り切っての9月10日(日)開催となります。

 さて、イベントが終われば次のイベントの始まりです。次の十年へ向かっていかなければなりません。
 運営を続けるだけでなく、出来ることを増やしていくためにもスタッフ数が足りていない状況です。
「スタッフの仕事ってどんなんだろ」
 ちょっと気になるなぐらいでも結構です。
 門戸を叩いてみてください。

bunfree.net

文学フリマ大阪10周年記念 スタッフ投稿リレー最終回 祝文

 いよいよ明日は第十回文学フリマ大阪ですね。
 荷物の準備も終わり、明日に備えているところです。いよいよこのスタッフ投稿リレーも最終回となりました。
 今回は来週開催の札幌から代表コメントを頂きました。
 札幌代表とはお互いの開催地域には行ったことないのに、各所で共に行動しています。今年は断念しましたが、来年こそは私も札幌に行きますね。

北の国からー2022 祝文ー

おくむらてつや(文学フリマ札幌事務局 代表)

 この度は文学フリマ大阪開催十年、誠におめでとうございます。
 どんな地域であれ、年1回のイベントを10年続けること、続くことは当たり前のことではないと思います。
 大阪事務局代表の高田さんをはじめスタッフの皆様に、そして出店者、来場者の皆様に心よりお祝い申し上げます。

 残念なことに、私は文学フリマと携わり6年が経過しますが、文学フリマ大阪には一度も行けていません。
 近年札幌は10月初頭の開催となったこともあり、9月開催の大阪に行くことは様々な都合で困難な状況となっています。
 大阪には一度だけ、高校の修学旅行で訪問したことがあります。
 その時は僅か1日、道頓堀の周辺を散策し「グリコサイン」のを背景に写真を撮った記憶があります。まさに「おのぼりさん」といったところでしょうか。
 社会人になり、遠出をするには有給休暇を使わなければいけなくなってしまった今、もっと早く文学フリマというイベントを知り、もっと早く大阪で文学フリマが開催されていることを知っていれば…と文学フリマ大阪の話題を目にするたびに考えたりもします。
「来年こそは…!」と言い続けて早3年。そろそろ有言実行しなければなりません。大阪スタッフの皆さんとも飲み交わしたいですしね。
 大阪スタッフの皆様も、ぜひ札幌にお越しください。特に高田さん……、一体いつになったら札幌に来てくださるんでしょうか?

 来場者の皆様、出店者の皆様。
 どうぞ、第十回文学フリマ大阪を大いに楽しんでください。
 皆様が文学を楽しむ姿が、事務局スタッフの皆さんの次の文学フリマ大阪への活力になると思います。
 そして、もし機会があれば文学フリマ札幌にもお越しください。
 ジンギスカン、海鮮、札幌ラーメンなどなど、美味しいものがいっぱいの北の大地で皆様を心よりお待ちしております。

 改めて、文学フリマ大阪開催十年、本当におめでとうございます!

文学フリマ大阪10周年記念 スタッフ投稿リレー6 ニューフェースから見た文学フリマ大阪

 いよいよ開催直前となりました。夏休みを取ったため、例年より準備に時間を割けている代表です。荷造りをしていましたが、多いですね。荷物運びにもう一人私が欲しいほどです。まだまだ準備は続きます。休憩の合間にこうした更新をしています。
 さて、第6弾となる今回はTwitterから応募頂いて今は中心で活躍されているスタッフからの投稿です。「ニューフェース」と書きましたが、今や中堅の位置ですね。

 文学フリマ大阪10周年を記念して、大阪スタッフで原稿を寄稿しよう。そんな話が舞い込んではや数ヶ月、自分の持ちネタの少なさに愕然とした。改めて文学フリマにまつわる記憶を手繰り寄せると、両手で収まる程度の数しかなかったからだ。

 これでは書くものも書けない、何かネタを。わらにもすがる思いで、文学フリマ大阪の公式ブログを読み漁った。良い機会なので、公式ブログを読み返して思い出した、自身の来歴をここにアウトプットすることにする。

 私が文学フリマのスタッフに応募したのは2018年度の大阪開催終了後で、初めてイベントに参加したのは翌年の京都。Twitterでスタッフ募集のツイートを見かけるまで、文学フリマの存在すら知らなかった。

 スタッフに応募したきっかけは、就活のガクチカで書けそうという下心もあった。良い感じのボランティア、あわよくば自分の好きな文字や小説に関わるものだったら良いな、ぐらいの温度感だった。上記の通り文学フリマに関わって歴の浅い私は、文学フリマ大阪10年の変遷をこの目で見てきたわけではない。なので、私がスタッフとして参加して感じた3年半についてのエッセイをしたためたいと思う。

 

 2018年から、文学フリマ大阪の会場はOMMビルだ。京阪電車と大阪メトロに隣接し、大阪はじめ関西一円のアクセスも良好。天気の良い年には、会場の大窓から大川はじめビジネス街を一望できる。私は開場前の閑散とした会場で、窓から外の景色を眺めるのがとても好きだ。アクセス・眺望ともに優れたOMMビルで開催される文フリ大阪の1番の特徴は、「雑多」だろう。

 スタッフとして関わるまで文学フリマそのものを知らなかった私は、「文学フリマコミティアの文学版」という言葉を額面のままに受け止めていた。コミティア=オリジナルの漫画頒布会の認識だったので、その方程式に代入して文フリ=オリジナルの小説頒布会だと思い込んでいた。

 なんだったら、二次創作の小説頒布は文学フリマのターゲット外であることも知らなかったので、先輩スタッフの一言を聞いて、内心ひやっとした。学生時代の黒歴史を掘り返されるのだけは嫌だったからだ。オリジナル小説の頒布イベントだと思い込んだまま迎えた、2019年の文フリ京都。設営時に手に取ったパンフレットを開いて、頒布ジャンルの雑多さに驚いたのを今も覚えている。小説はもちろん、エッセイや詩集、写真集まで多岐に渡っていた。初めての参加だったため先輩スタッフからレクチャーを受けていたが、正直心ここにあらずだった。設営が進むにつれてごちゃついていく風景に、心臓がバクバク鳴っていた。

 訪れる来場者もさまざまだ。幼い子連れの夫婦、壮年の男性、若いカップル、大学のサークル集団。受付で高校生にパンフレットを渡した時には、私が20年間気づけなかったイベントを、一体どこで知ったのか……と、ほのかな嫉妬心さえ芽生えた。

 ベタな言葉になるが、言葉で表現するなら多種多様。来場者と短い事務的な会話を交わすだけでも、大阪以外から訪れている人も少なくないと感じる。コロナ禍になる前に開かれていた懇親会で出会った方は、はるばる北海道から毎年参加していると話していた。私は私以外のバックグラウンドやライフスタイルを持つ人とお話しするのが大好きなので、今切実に願うことは早くコロナ終息して懇親会を再開したい。これを読んでくださってる方、次回の懇親会でぜひお話ししましょう。

 

 世界のいろんなことが変わったり変わらなかったり、なくなったり生まれたり。書き手のジャンルが変わることもあるだろうし、来場者が増えたり減ったりすることもある。それでもそれが好きな人が一人でもいる以上、それはそこにあり続けるだろうと私は考える。文学フリマというイベントはもちろん、それ以外も。その場所はそれが好きな人のためにあり続けるし、なくてはならない。

 文学フリマのスタッフとして参加する私が、場所を楽しむ人の役に少しでも立てればこれ幸い。パンフレットを配る人は一人でも多い方が良いし、本を置く大きな机は三人で運んだほうが効率が良いからだ。来年、再来年、その先がどうなるかはわからないが、多分きっと、おそらくジーパンで会場を走り回っている気がする。あのカオスで雑多な会場が、面白くて好きだからだ。

 

 最後に、本企画の企画者様へ。原稿の締め切りを踏み倒しまくって本当にすみません。最近文字書きから離れていたツケが回ってきたのか……。これを機に、もう一度筆を握り直したいと思います。

文学フリマ大阪10周年記念 スタッフ投稿リレー5 カメラマンから見た文学フリマ大阪

 第十回文学フリマ大阪まであと一週間を切りました。
 事務局も準備の追い込みとなっております。
 本日は一回目の大阪開催からスタッフとして参加頂いているロビンさんです。とある場所で出会ってから十年超のお付き合いになります。
 以前から代表が書け書けと言っていたことを記事にして頂きました。
 京都でもカメラマンをやっているロビンさん。「文学フリマ関西」のカメラマンですね。

 

 第一回目の文学フリマ大阪(第十六回文学フリマin大阪)の集合写真です。一般として来場してなぜかこの写真を撮ったのが昨日のように思い出されますね。

 

 ちなみに当時のカメラマンさんが

「君、大阪の人?カメラ持ってんの?撮ってみてよ!」

と言われて撮る。何枚か撮った写真を見て

「よし!大阪は君に任せた!よろしく!」

みたいなやりとりがこの写真の前後にあります。

 

 カメラは趣味であって全く本業ではないし、そんなつもり一切なかったので、えっっっっとなったんですが、「まぁえぇか。おっけーおっけー」みたいになりました。大阪代表とは元々知り合いでもあったし、記録写真でクオリティはあまり関係ないと言うこともあり。そんな大阪も十回目を迎えることになります。もうそんなになるのか。

 

 僕にとって文学フリマの始まりはめちゃくちゃ緩い始まりではあるんですが、撮影自体はゆるくはなくて、いつも終わった時にどっと疲れが出ます。出展してる皆さんからめちゃくちゃ濃い熱意をいつももらってて、その熱意にやられてる、と書いていたら美しいですかね。けど本当にそんな感じです。

堺市産業振興センターの様子

 


 堺では移動店舗もありました。カレー屋さんとドーナツ屋さん。どっちもおいしいので結構並んでた気がします。本とカレー、ドーナツ、コーヒーはめちゃ合うと思ってるので、可能であればいつかこのセットを呼び戻したいとか、密かに思ってます。

 

初期大阪代表

若い

 

 一時期ブースコンテストなどもやってたんですが、これ実はすごい大変だったんですよ。あまりにも大変だったので、友人に手伝ってもらって二人体制で写真撮ってました。NGの人なんかもいらっしゃるとはいえ、ほぼ全部の出店スペースを写真に収めてました。けど、今思い出せばその時が一番たくさんコミュニケーション取っていただいてたかもしれないです。写真撮るだけでなくて、喋ったり少し本見せてもらったり、ディスプレイの話聞いたり。

 

 めちゃくちゃばーん!って感じの装飾したブースはそんなにないのですが、世界観を表現したアイテムをディスプレイをしてるところが一時期増えてきたような印象がありました。今では落ち着いてきた感じはありますが、こういったものが装飾されていたらやはり目がいきますね。手間暇はもちろんかかると思いますが、こういったものを作るのもまた自分の作品と向き合うという意味でもいいのかななんて思います。

 

 スタッフ写真。

 堺の会場はステージがあったので、見本誌コーナーが展開されたり傀儡舞の演舞があったりちょっと変わった会場だったなと個人的には思います。設営前と撤去後の何にもない状態をステージの上から見るのはなかなか感慨深いものがありました。

 

 文学フリマ大阪は第6回から大阪天満橋にあるOMMに移動しました。

 地下鉄から直接アクセスできるかつ大川沿いという景色の良さは他に代えがたいですね。雨の日も濡れることなく安心!

 

 めちゃ明るい。

 もちろん出店者数も増えたのですが、前述したアクセスの良さからか来場者さんも増えました。さあこれからっていうところで「COVID-19」
 あんまし良い話ではないですが、ここ数年はCOVID-19に振り回されている気もします。幸いにも文フリ大阪はこれまで中止もなく続けていられるのは、COCOAの導入や手指の消毒、マスクの着用などの協力があってこそです。

 

 そんなこんなで一瞬出店者は減ってしまいましたが、より一層熱がこもってたような気がします。ありがたいことに皆さん戻ってくれてます。使用前使用後みたいな写真。

 

 突然、しかしふんわり始まった文学フリマ生活。年に一回(京都を入れると二回)記録写真を担当していますが、毎回楽しくさせていただいてます。撮影をしつつ各ブースを見て休憩時間に買いに回る。撮影中や買い物中に僕のこと覚えててくれてる方には時々声かけてもらいます。

 皆さんの情熱に煽られながら撮影したり、買い物したりしてますので、気軽に声かけてもらえると嬉しいです。あくまで記録なので、撮った写真を何処かで公開するということはほぼないのですが、皆さんのブースもそうだし、好きなものを楽しそうに喋ってるところや真剣に本を読んでるところ、友人らと談笑してるところ。参加者さんの幸せそうな写真で僕のHDは埋まってます。と、いったところでまとまらず僕の文は終わらせたいと思います。どうもありがとうございました。

 

 2021年元気な大阪事務局の皆さん(大阪代表は欠席)

 多分レア写真

文学フリマ大阪10周年記念 スタッフ投稿リレー4 関東から引っ越してきてスタッフに

 事前準備に追われていて、投稿するにも隙間時間となっております。
 さて、今回は転勤で関東から大阪へ引っ越し、年末の飲み会で私に出会ったことをきっかけに事務局スタッフになったメンバーに書いて頂きました。因みに冒頭の上京はその当時は彼女だった妻に会うためでした。時を感じますね。

 2016年末、東京某所。引越目前の忙しい合間に知人から飲みに誘われました。

「初めての転勤で寂しいでしょうから、ちょうど今、大阪から友人が来ているので紹介しますよ」

 文学フリマ大阪代表との出会いはその知人の紹介が始まりでした。

 当時、自分は本を作った経験が無いので、文学というのは未知の世界でした。文学フリマについて大阪代表から教えて頂くことに。文学って学生時代以来かな。

 コミケオンリーイベントには参加した事はあっても、文学に特化したイベントがあるというのは初耳でした。しかも全国規模で開催されていると聞き驚きました。

 引越してから暫くして大阪生活にも慣れてきたので、第五回文学フリマ大阪から自分も運営スタッフとして参加する事になりました。

 これまで即売会に一般参加したことはあったものの、設営から撤収まで滞在したことが無かったので、運営スタッフ側に立つと、本を作って頒布して終わりではなく、新しい作品や作者、参加者との出会いであると言う事を改めて思いました。自分も会場の熱気に感化されました。知らない世界や実際に動いてみて分かる事が多く、いい刺激になりました。

 第六回からは会場が堺からOMMに変わり、会場アクセスも良くなり、広さも拡大しました。

 普段の仕事でしない設営・運営・撤収に苦労もしましたが、他の大阪スタッフやアライアンスメンバーの支援もあり無事に完了しました。

 大阪も回を重ねるごとにサークル参加数、来場者数が増えていきました。同時に大阪の運営スタッフも増えて、良い感じに動いています。

 毎回、仕事と文フリ運営の両立には苦労しますが、無事に当日を迎え、大きなトラブルも無く撤収完了した時の達成感も大きくなりました。

 文学フリマ大阪は開催時期が9月なので毎年のように台風、ここ数年は疫病の脅威に晒されますが、幸い一度も中止・延期になったことがありません。

 これだけ多難な状況でも1度も中止・延期にならないのは何故なのか、代表に聞いてみたところ、「普段から徳を積むようにしてるんですよ」という返答が。

 なるほど、徳ですか。ちょっと意外な返答でしたが、確かにそれは一理ありそうです。

 どんなに万全を期していても不可抗力はありますが、10回目も無事に開催できたのは、スタッフ、サークル参加者、一般参加者、全員が徳を積んできたからなのかもしれません。

 これから文学フリマ大阪はどのように発展するのか。期待と共に伸びしろはありそうです。

文学フリマ大阪10周年記念 スタッフ投稿リレー3 もう一人の副代表より

 明日はいよいよ出店案内発送です。無事に準備は整いました。出店者の皆さんはもう少しお待ちください。
 さて、今晩はもう一人の副代表からの投稿です。
 文学フリマ大阪開催前夜について書いてくれました。これを知っている人は限られていますね。開催の少し前なので、10プラスα年の話になります。
 そんな彼も本日入籍したそうです。
 ちーたん、ご結婚おめでとう。

 この企画で文章を書くにあたって、何を書こうかと机に向かっている。
 うーん、やっぱりこれしかないかなと思う。文学フリマが大阪で開催される、その始まりの話。ぼくはこの話の語り部として高田代表の次にふさわしいと自負している。あくまで自負。でも、少しだけ聞いてくれたら嬉しい。ただ、10年近くも昔の話でもあり思い出は美化されてしまうもの。事実とは異なる描写もあるかもしれないが、大きく間違ってはいないと思う。
 話はぼくの大学入学まで遡る。何故? と思うかもしれないが、少し我慢して読み進めてほしい。ぼくは地元を離れ、大阪のある大学に入学した。大学入学の時期といえば、サークルの新入生勧誘だろう。この文章を読んでいる大学生(もしくは元大学生)の多くがそうであるように、その頃のぼくは文芸サークルに入るつもりだった。大学の大通りには机が並べられ、色々な部活やサークルが新入生の勧誘に勤しんでる中、文芸サークルを探して学内をうろうろしていると、見つけた。机の上にサークルの情報を掲示し、周りに声をかける様子もなく、一人椅子に座っている眼鏡の小柄な男性。これがぼくと高田代表の出会いでだった。
 話を聞きたいと声をかけると、まさか話しかけられるなんてといった様子だったが丁寧に説明してくれた。どうやら彼が部長であるらしい。ひとしきり説明を受け、他のサークルも見てみたかったので、連絡先を交換してすぐに立ち去った。
 電話がかかってきたのはその数日後だった。新歓コンパをするので来てほしいとの連絡だった。まだ友達もおらず暇だったので即答で了承し電話を切った。ああ、これが大学生になって初めての飲み会か、と思ったのを覚えている。待ち合わせ場所に行くと、サークル説明をしてくれた小柄な男性と二人の男性が待っていた。その場で簡単な自己紹介をして、二人の男性はサークルの先輩であることがわかった。
 電車で40分くらいの繁華街にいつも行っている店があるというので、そこへ向かう。小洒落た英国風パブに入店し、おすすめのビールを飲みラム串を食べたように記憶している。念のため記しておくがここまでの登場人物はすべて成人している。本当に。
 趣味はなんだとかどんな作家が好きだとか、そんな話をしたように思う。先輩たちは当然のようにぼくに支払いをさせずにお会計を済ませ、慣れない土地だろうと駅まで送ってくれ、まさか帰りの電車の切符まで買ってくれた。ここまでされたら仕方ない。ぼくはこうして入部することになった。
 このサークルは主に文芸誌を作り、年に数回の即売会で頒布することを目的としていた。ぼくは掛け持ちで入った別のサークルの活動もあったので、熱心に活動する部員ではなかったが、それでも定期的に開催される会議には出席したし、放課後に空き教室でだべる先輩たちと遊ぶのは楽しかった。
 ある時、出店者に漫画サークルが多い同人誌即売会での文芸サークルは肩身が狭いといったような話になった。ぼくは随分前に読んだ雑誌『新現実』(大塚英志さん、東浩紀さんが編集していた文芸誌)にお知らせがあった文学中心のイベントのことを思い出し、こう伝えた。
「東京では文学フリマというイベントがあるらしいですよ」
 と。
 文学フリマのことを知った高田代表の行動力はすごかった。
 まず一般参加者として東京に向かった。そこで文学フリマの雰囲気を知った彼は、大阪で開催する予定はないか、あるのであればサポートしたいといった旨のメールを主催者である望月代表に送っている。そのことが文学フリマが大阪で開催されるきっかけになったのは間違いないだろう。
 ぼくはそんなことになっていることなどつゆほども知らず、高田代表とは彼が大学を卒業したので、たまに学外での交流を持つのみになっていた。ある日、彼から連絡が入った。
「森くん、大阪で文学フリマをするかもしれない。文学フリマの代表と話をするから東京にいかんか」
 ぼくは驚いた。まさかそんなことになっているとは。だがしかし面白い。即答で了承した。
 当時、すでに社会人として働いていた高田代表は新幹線で、貧乏学生のぼくは高速バスで東京へ向かうという格差を感じながら、新宿で望月代表と待ち合わせたことを覚えている。そこで何を話したかはあまり覚えていない。ただ、本当に大阪で文学フリマをやるのだな、と実感したことをぼんやり記憶している。
 第一回文学フリマ大阪は東京事務局主催で開催された。そこで大阪事務局チーム(主に高田代表)はノウハウを教えてもらい、次回の独自開催を目指した。ぼくはというとほとんど何もしていないが、第一回目の開催でボランティアスタッフが少なかったので、大学の後輩を招集して当日のスタッフとして協力してもらった。後にも先にもぼくが文学フリマ大阪事務局に貢献したのはこれだけかもしれない。そこから先は皆さんもご存知の通りだろう。参加してくださっている皆さんのおかげで10周年を迎えることができた。本当に感謝している。
 ぼくは現在、仕事の都合で東京に住んでいるため東京開催のお手伝いをすることもある。ただ、ぼくの帰属意識はいつも大阪事務局にある。文学フリマで自己紹介する際は必ず、大阪事務局のスタッフです、と言う。あの日、大学で初めて酒を奢ってくれた高田代表にはまだまだ付いていくつもりなので、よろしくお願いしますね。代表。
 

 

 

文学フリマ大阪10周年記念 スタッフ投稿リレー2「三好長慶と花田清輝」(副代表より)

 文学フリマ大阪10周年記念のスタッフ投稿リレー2つ目は副代表からです。今年のメインビジュアルを飾る三好長慶ゆかりの地を訪ねてきてくださいました。

 

1.移動中に見たもの

 

 ヨドバシカメラの通販で買った水色の日傘を手に、大阪は堺の南宗寺に向かいました。「なんしゅうじ」と呼びます。午前九時半に家を出ると、沸騰した泥をぶっかけられたような気分になります。重たいほどの太陽熱と道路の照り返しです。

 天王寺阪堺電車に乗りました。阪堺電車大阪市内と堺市内で2路線の路面電車を運行しています。
 その路面電車が素晴らしすぎて、このまま終点の浜寺公園まで車輪の音を聞きながらここに座っていたい……と思いました。昔、千葉県の市原湖畔美術館に行くために、大阪から電車を乗り換え乗り換え、小湊鉄道線高滝駅にたどり着くまでのだんだん人が少なくなっていく、いわゆる「冷房の効きすぎた車両のノスタルジー」を思い出しました。乗車する人は自分しかいない、めちゃくちゃ冷たくて気持ちいい冷房、というあの感覚。人の少ない電車と、窓から見える山と緑。「こんな山の中にも家があるんやな……」という気持ち。それが一気に噴き出してくる電車でした。

 二〇分か三〇分ほど乗っていると、御陵前駅に到着。南宗寺は歩いてすぐの所にありました。ちなみにその一つ手前の駅である寺地町との間には、二階建ての死ぬほど涼しいブックオフと、和菓子屋「かん袋」と、知る人ぞ知るお米の美味しいお店「銀シャリ屋」があります。この南宗寺にお立ち寄りの際はぜひこの三つもチェックして下さい。

 まずブックオフは行きました。涼むためです。それから「かん袋」は、かん袋を買いに来た客の駐車場だけを見ました。実際には買いに行ってません。その駐車場の近くに不気味なほど滅びた長屋のような建物があり、そっちのほうが目立っています。あれはいったいなんなのでしょう。また、銀シャリ屋はそのかん袋駐車場の横断歩道向かいにあり、訪れたお客さんは、記念写真を撮っていました。それほどの名店らしいです。お米がめちゃくちゃ美味しいらしいです。

 

2.南宗寺と花田の批評

 

 南宗寺は、いわゆる大量の観光客に対応できるようなお寺ではなく、北入口から入りますと普通にお墓がたくさん並んでいますので、お参りに来ている方の迷惑にならないように動く必要があります。
 南宗寺甘露門の近くには、わりと最近作られた感じの三好長慶公の座像があります。「文武相備 在家菩薩」と銘うたれております。三好は戦国大名なので、鎧を身に纏っていたり、勇ましいイメージがありますが、文学フリマ大阪の表紙としてはこの「文化人としての三好長慶」のほうがしっくりときます。今年は三好長慶生誕500年だそうで、全国のニュースにもなっていました。

 ところで、作家・文芸評論家である花田清輝のエッセイに「古沼抄」という作品があります。これは、『日本のルネッサンス人 (講談社文芸文庫)』などに収録されています。
 まず、花田は、『日本のルネッサンス人』全体を通して、一貫して主張していることがあると思います。
 乱世かつしがらみのある世界や世間の荒波を機転と知識を活かして生きる「庶民」像と、芸術に徹底することで逆に世界を飲み込んで乗り越える「天才」、そんな二つの世界の良い意味での接続(庶民と天才の融合ではありません。ちょっと距離があります)です。
 そして日本の中世は、そういう天才と庶民の時代なのだ、転換期なのだ。「転換期」を土台にして、一条兼良等を中心に取り上げながら書いて、戦争にあけくれる政治を飲み込んで超えていく、ある意味「芸術や数寄至上主義な徹底した貴族や文化人と名もなき庶民一人一人の力強い仕事に徹する生き様の融合・共同作業で、歴史や戦争や政治を越えて行く」みたいなことを柱にして、中世の日本を書いているように思います。
 酒の勢いで悟ったことを言ったり、運動のための政治になってしまうような連帯とは異なる「運動」または「共同作業」を、花田は中世の日本に見ているのでしょう。

 

3.花田と三好


 そこで、花田は「古沼抄」で三好長慶を取り上げます。
 エッセイはこんな出だしから始まります。(【】は引用です)

【永禄五年(一五六二)三月五日、三好長慶は、飯盛城で連歌の会をひらいていた。宗養だったか、紹巴だったか忘れたが、誰かが、「すすきにまじる芦の一むら」とよんだあと、一同がつけなやんでいると、長慶が、「古沼の浅きかたより野となりて」とつけて、一同の賞讃を博した。(『三好別記』『常山紀談』)】

 つまり、長慶の表現はこうなります。
【まず、古沼がある。古沼のまわりには芦の群落がある。つぎに、芦間にまじるすすき一もと──または一むらがあらわれる。いつの間にか原野のけはいがただよいはじめたのだ。それから、すすきにまじる芦の一むらが続き、やがて古沼の影響は、まったく消えさり、最後には、風がふくたびに、いっせいに波たち騒ぐ、ぼうぼうたるすすきの群落になる。】

 この連歌の流れを、一つの芸術運動として花田は捉えて、【運動の究極の目的は、その運動に参加した全員の手によって、具体的な作品をつくり出すことであろうに。】と述べます。
 そして、【わたしは、共同制作を、みずからの課題とする文学集団の出現を待っている。】、【文学というものはあくまでたった一人で書かなければならないものであろうか。】と述べています。
 世に対する、もしくは自分に対する、もしくはそのどちらでもなく、色んな思いを込めて作品を完成させる。その色んな思いのこもった完成度のある作品は、集団のこの連歌のようなコラボならばできるのではないか、と。


 もちろんダメな例があって、それは花田自身の経験を例に書かれています。
【もっとも、わたしの演劇における共同制作に決定的な終止符を打ったのは、ある演劇 研究所の試演で、わたしの戯曲のなかの馬が、六本足で登場するのをみて以来のことだ。それは、たしかに因習にとらわれない試みにちがいなかった。しかし、六本足の馬には、はじめてお目にかかったので、演出者にそのわけをきいてみると、かれは、さばさばとした顔つきで、二人の馬の足では、胴体が重くて、とうてい、持ち上がらないので、一人、馬の足をふやしただけですと答えた。】
 これでは「三好長慶」にはならないということです。

 

4.南宗寺巡り

 

 さて、南宗寺の山内のちょっと外れたところには、大辨才尊天の神社がありました。文フリの参加者の方、来場者の方が、のびのびと楽しめる会になるよう、祈りました。夏なので、木々や草花の勢いが凄く、薄暗い神社になっていて、ちゃんと手入れされているのかなと心配になりましたが、境内社のお花はきちんと取り替えられていました。
 ちなみに、南宗寺は重要文化財が3つあり、承応2年(1653)建立の仏殿(大雄宝殿)、正保4年(1647)建立の山門(甘露門)、江戸時代初期建立の唐門が、国指定の重要文化財だそうです。


 甘露門は三間一戸の楼門、入母屋造、本瓦葺の建物で禅宗様と和様の折衷様式になっています。
 唐門は一七世紀中頃の建立とみられ、簡明な構造の向唐門であり、その屋根瓦の紋所は、あの徳川の「三つ葉葵」、木鼻の絵様繰形は、甘露門に通じています。昔、この堺に建てられていた「東照宮」へ通じる唐門です。
 で、それはどんな門やねん、とお思いでしょうが、写真は一応アップしません。ネットで探して下さい。

 他のサイトのブログとかにはぶっちゃけ南宗寺の写真はガンガンに上がっているのですが、案内のパンフレットを見ると「山内禁煙・撮影禁止」の文字があります。みんな上げてるんですけど、対策のしようもないし、放置なのでしょう。私は写真アップはしませんので、上げるとしたら阪堺電車の写真一枚ですが、ほんとうにこの電車に乗るだけでも楽しかったので、ぜひ乗って行って下さい。おすすめは、誰もいない時間帯です。朝1番とか。5時とか6時くらいとか。

 そして、阪堺電車は乗ってくるお客さんにも注目です。帝塚山近くになるとダンススクールに通っているポニーテールの女子たち、住吉大社近くになると超絶いかつい薬局と観光客や並ぶ灯籠。北畠になるとなんか建物が結構豪華というか、何階建てですねんという一軒家が並ぶけれども、めちゃくちゃ電車が目の前通るというカオスさ。また、道路の広さも注目してください。綾ノ町駅あたりから、道路がバチバチに広くなります。帰りに乗るともっとはっきり分かるのですが、家にぶつかりそうなくらい道が狭かったことに気が付きます。道がいきなり広くなるのは、戦争で、火が燃え移らないように大和川から高須神社に向かって南下したあたりから道路拡張工事をした影響らしいです。

 

5.南宗寺更に奥深く

 

 さて、パンフレットによれば、南宗寺は大永6(1526)年京都大徳寺の住職古嶽宗亘が堺南庄舳松(現堺区協和町)の一小院を南宗庵と改称したのを始まりといわれているそうです。
 大林宗套(だいりんそうとう)は、南宗庵で古嶽に参禅し、後に大徳寺の住職(大徳寺九〇世)となりました。天文十七(1548)年、師の遺命により南宗庵にはいりました。
 大林和尚に深く帰依した三好長慶は、父元長の菩提を弔うために、弘治三(1557)年、南宗庵を移転し、大林宗套(だいりんそうとう)を開山として創建、南宗寺としました。天正二(1574)年の松永久秀の乱、慶長二〇(1615)年の大坂夏の陣にて南宗寺の堂宇は焼失しました。その後、沢庵宗彭(たくあんそうほう)らにより再建が行われました。

 織田信長よりも二〇数年前に堺を拠点に畿内など十三カ国を治め天下統一したのが三好一族です。ちなみに出身は徳島だそうです。

 

 南宗寺は、受付にはボランティアの説明の人がいて、無料でガイドしてくれます。夏は、虫除けのスプレーが備え付けられていて、かけることをすすめられます。蚊がめっちゃいるようです。
 案内が始まるとすぐ、裏千家表千家武者小路千家の供養塔があり、三千家区別なく供養していると説明があります。お茶の聖地ですね。
 武野紹鴎の供養塔があり、真ん中に四角い穴が開いています。その穴から釜の水の煮える音がするそうです。また、三好一族の墓もあります。一番背の高いのが三好長慶だそうです。その一族の墓の向かいにはなんと徳川家康の墓もあります。ここに徳川は埋まってるんじゃい! という山岡鉄舟のお墨付きだそうです。


 茶室ももちろんありますが、非公開。枯山水の石庭は見ることはできました。奥には古田織部式の石灯籠が立っていて、土台石がないそうです。つまり高さを調整しやすくなっているとか。けれども、調整しなさすぎて、ちょっと傾いていました。
 また、鞍馬山にあったような水琴窟があって、長いパイプを用意してくださって聞くことができますが、あまりにもでかい音で、なくても聞こえます。
 津田家と半井家一門の墓もあり、隠れキリシタンとして、灯籠にはマリア様と、キリストが掘られています。問い詰められたらお地蔵さんですといえるように、像の頭は丸くしてあります。

 

6.堺は東京である

 

 戦前にはこの南宗寺の地に「堺東照宮」がありました。しかし、昭和20年の空襲で焼失したそうです。堺は徳川勢と仲良くしていたので、豊臣から、徹底して焼かれてしまう。それが堺に深く傷をつけた歴史を知ることができます。

 いたるところで、大阪とは思えないほど、徳川の葵の紋所を見ることが出来ます。それから、瓦を積み上げて固めて作った塀が至る所にあります。第二次大戦の戦火の中でも崩れなかった頑強さだそうです。この瓦は、徳川と繋がっていることを疑われ、大阪に堺中が焼かれた時の家の屋根の瓦を使っています。その塀のテッペンには三つ葉葵の紋の瓦が取り付けられています。

 私の中で、堺は、もう一つの江戸(東京)、というイメージです。そして、堺にとって、豊臣よりも徳川が慕われているという文化があったことはまったく知りませんでした。「堺」と「大阪」は徳川を巡ってまったく違う! むしろ、言い過ぎかも知れないけれども、堺は大阪ではないのでは? これは重要な観点だなと、学びました。

 本堂には、臨済宗らしく、でかい龍の天井画があり、どこからみても、龍が自分を睨んできます。京都の建仁寺の天井画を思い出す人が多いでしょう。本尊は戦後の混乱のころに盗まれたらしく、いまだにどこにいったかわからないそうです。で、今ある本尊の釈迦如来像のところは個人的な撮影も禁止。あと、修行中の若い僧侶がいましたが、話しかけてはいけないそうで、ボランティアさんも、挨拶は軽くするくらいだそうで、非常にストイックです。

 山内にある坐雲亭は南宗寺で最も古い建物です。中には徳川秀忠、家光両将軍の御成りを記した板額があるそうです。大阪と言えば豊臣、ですが、堺を訪れて思ったのはここは徳川だな! でした。むしろ、大阪にいながら、東京観光をしたような気分でした。
 この堺と徳川の関係というかエピソードは戦後もあるようです。
 あるとき松下幸之助を三木啓次郎(徳川家に仕えた常陸水戸藩家老三木之次の子孫。三木之次は水戸黄門こと徳川光圀と極めて大きな縁がある)が出資し、松下電器を助けた。その後、三木が「水戸黄門」を番組にするとき、スポンサーとして、かつての出資の恩のお礼として松下電器がついたという。そんなエピソードも、南宗寺に眠っています。

 

 現在、どうにか三好長慶NHK大河ドラマにしてくれと、猛プッシュですが、なにしろ登場人物も多く人物関係も複雑なので、ドラマ化は無理ちゃうか、でも鎌倉殿の十三人ができたんやからできるやろと、大河ドラマ化に向けての議論がボランティアさん同士でされてました。
 禅堂をふとのぞくと、修行の僧侶が身体を休めていました。私は僧侶といえば、暴飲暴食、新地で大暴れして京都でベンツ乗り回す僧侶しか知りませんでしたので、こんなストイックな僧侶がこの世にいるのかと、驚きと共に、関心いたしました。

 

7.花田清輝の結論

 

 さて、最後に、花田清輝は南宗寺について、このような言及もしています。


【南坊宗啓は、堺の南宗寺の集雲庵、一名南坊に住んでいた禅僧であって、茶人としては、千の利休の弟子だったが、先生の三回忌のおこなわれた文禄二年(一五九三)二月二十八日、突然、集雲庵から蒸発してしまった。】と利休の高弟とされる南宗寺の塔頭集雲庵(たっちゅうしゅううんあん)第二世住持と自称した男を取り上げます。

 そして、南坊宗啓の正体について議論を進めつつ、利休の茶のスタイルとは意味とは何だったのかについて述べていきます。

【徐々に茶の湯といったような共同作業のなかへ誘いこみ、いつのまにかあたらしい因習外の秩序を実現したところに利休の独創があった。】のではないかと花田は言います。

【個人というものは、とうてい、わかりあうことのできないものだという大前提の上に立って、しかもなお、茶の湯といったような共同作業をとおして、それらの個人のあいだにコミュニケーションの成立することをねがった芸術運動の指導者の言葉ではなかろうか。したがって、わたしをしていわしむれば、利休にとって茶の湯とは枯淡の心境にたっするためにではなく、枯淡の心境からぬけだすためにとりあげられたものであったのだ。】と利休の茶を分析します。

 つまり「コミュニケーションできないから、争う」のではなく、できないから、茶の湯というある因習を超えた「道具の空間」を新たにつくって、思いもよらぬ次の秩序やルールを共同作業で目指す、現実のものとする。

 ちなみにそれは、何か枯れた、老成した、もしくは悟りあえるような空間ではない。つまり、チルな感じで人生を悟ったような感じで一体になってるわけでも、無頼やアナーキーでちょっぴりアウトローであることを母のように誇るのでもなく、自分が同調圧力をかけていることをフッドと呼ぶようなこともせず、答えが出ないことを保ちつつ「俺達が仲良く出来るわけないだろ」と感じあいながら究極の器と花と茶を楽しむ。それがこのエッセイ「利休好み」(『日本のルネッサンス人』収録)にて語られています。

 つまり、先ほど取り上げた「古沼抄」の応用編・実践編になるわけですね。

 南宗寺に集雲庵はもうありませんが、利休好みの茶室「実相庵」はあります。
 茶室は入れませんでしたが、土壁のところに、羽化に失敗し、半分殻を脱いだまま固まって絶命している蝉がいました。